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野球部の変遷

昭和24年、女子高だった雪谷高校に初めての男子生徒50名が入学しました。
軟式野球部ができ、大井義夫さん(3期)たち20名ほどが入部しました。
まだ物が豊富でない時代で、ボールやグローブは「ズック」という布で自分たちの手で作ったりしていました。
都立大森高校や荏原高校と練習試合で対戦しました。
校庭にはネットもなく、練習中、ご近所のお宅の窓ガラスを割ってしまったり、他の生徒にボールが当たってしまったりしました。

昭和25年、丸道雄さん(4期)が入部した時は軟式野球部でしたが、二年生の時に校長先生に直談判して、硬式に変更してもらいました。
監督は英語科の小野江先生でした。大学や他校のグランドを借りて練習もしました。
道具の糸が切れたりしても部費が少なく、自分たちの手で縫っていました。

昭和27年、後にカメラマンとなった故・丸山茂氏(6期)が自前カメラで撮影。右奥に線路が走る。

昭和27年、後にカメラマンとなった故・丸山茂氏(6期)が自前カメラで撮影。右奥に線路が走る。

昭和27年に入学した林茂暢さん(6期)の父親は、PTA会長だったので、石教頭や担任の岐部先生が自宅によくいらしていて、体育館を建設する話をしていました。

そんな中、林さんが所属している野球部が高校野球連盟に加盟していないことが判明しました。
立教大学野球部の出身だった父親に後押しされ、林さんは高野連加盟に向け、奔走しました。

昭和27年10月、英語科の小野江先生を部長として申請し、無事に東京都高校野球連盟に加盟することができ、公式戦に出場できるようになりました。
ところが、また軟式に変更になってしまいました。
部室には、硬式で使用するキャッチャー用の膝当て(レガース)が残されています。

昭和47年、3年生だった平塚勝啓さん(24期)が、顧問の上原健夫先生(体育)に硬式への変更をお願いしたところ、全員スポーツ刈りにするよう条件が出されました。
同期の賛同は得られませんでしたが、宮本一夫さん(25期)ら後輩たちの粘り強い努力により、昭和四十八年、遂に硬式野球部復活が実現、高野連にも加盟しました。

練習中の現役野球部。フライ防止のネットが張られている。宮内正英さん(23期)撮影

練習中の現役野球部。フライ防止のネットが張られている。宮内正英さん(23期)撮影

高校卒業後も、硬いボールへの恐怖心を取る練習などで後輩をサポートした平塚さんは、自分では硬式野球はできませんでしたが、後の甲子園出場へと続く硬式野球部を後輩に残せたことを嬉しく思っています。

東京教育大学(現筑波大学)野球部の部長を経験されていた上原先生は、ゴムボールを使用する軟式から、硬式への移行のためにソフトボールを使って三ヶ月ほど練習させました。

硬式の用具が満足に揃わない中、ボールやバットの違いに戸惑いながらも、宮本さんたちは必死に練習を重ねました。その年に出場した夏の大会は、予選一回戦で都立文京高校にあっけなく敗退したものの、神宮球場に標したその小さな一歩が30年後、平成15年の東東京大会優勝につながったことを誇らしく思う宮本さんは、現在、硬式野球部OB会の会長を務めていらっしゃいます。

32期・富里由加里(福田)

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